本当におめでとうございます。
お心遣いもありがたく。
本当におめでとうございます。
お心遣いもありがたく。
今朝の京都新聞文化欄(紙面)で、拙著『列島哲学史』(みすず書房)について大きく特集していただきました。記者は樺山聡さん。深く感謝します。
でも、そうした偉大さは、漱石だから達成できるというようなものではないように、私は思います。
こんな話を読んだことがあります。
戦争中に軍隊にとられた兵士が、南方のジャングルをさまよっていると、目の前に塩袋が見つかり、「コノシオヨゴレテイナイ」と書いてあった。
「コノシオヨゴレテイナイ」。この簡潔な表現に私は、書くことの理想が集約されているように感じます。
難しい状況の中でも、書くことの理想を探ることはできるのではないか。
この一行に見合う表現を探り続けていけば、それが一冊の本になることもあるのではないか。
これからの皆さんのご研鑽とご自愛を祈りつつ、お祝いの言葉にかえさせていただきます。
書くことは、何よりもまず、もう一人の自分という読者相手のキャッチボール、自己内対話の経験であるように、私は思っています。
そのつぎの読者は、顔が具体的にうかぶ身近な他者。さらにそのつぎに、それ以外のすべての未知の読者。そのように枝分かれしていくのですが、最初の自己内対話という性格はどこまでもつきまとうことになる。そしてここには、「数の力」では押し通すことのできない領域が広がっています。
小説家としての漱石の偉大さは、「自転車日記」ののち、「吾輩は猫である」から「明暗」にいたるまで、書くことの行路にそって歩きながら、最初の出発点をつねに見失わなかったことでしょう。
ここまでのご努力が実り、今日の日を迎えられたこと、心よりお慶び申し上げます。
書くということは、それ自体が生きることと同じ意味をもつ経験で、この努力に終わりはありません。そのことの意味を、今皆さんは噛みしめておられるのではないかと思います。
夏目漱石にとって書くことは、卒業ということのありえない経験でした。そのことが鮮やかに示されている文章に「自転車日記」というエッセーがあります。自転車に何度乗ろうとしても七転八倒して上手に乗れない自らの姿を描き、自分自身にとって書くこと、生きることの根底をなす身ぶりを鮮やかに書きとめて、私たちの心に残ります。
非常勤先の芸術系大学の通信教育部で、今日が卒業式。文芸コースに身を置いている私は、そのあとの分科会には都合がつかずに出席できないため、この場を借りて、お祝いの言葉を述べさせていただくことにします。
そうでしたか。
お知らせ下さりありがとうございます!
今日の京都はよい天気でよかったです。あらためまして、ご卒業おめでとうございます!
南の島、それはいつかぜひ。楽しみです。
お母さま、すごい方ですね。その本は未読ですが、『南方曼陀羅論』は、名著だと思いました。
鶴見和子さんは、老いを重ねるごとに独創性を豊かにしていった、珍しい、そして未来的なタイプの書き手だと思いますね。
きっとどこかでお会いできるでしょう。私も楽しみにしています。
青木さん、きっと喜ぶでしょう。東吉野村の図書館も、機会があればぜひ訪ねてみてください。私にとってはとても素敵な場所でした。
『言語表現法講義』は、定年退職した鳥取の高校の国語の先生が、これを読んで励まされて、自費出版で素晴らしい著作(夏目漱石の『こころ』論)をお出しになったという話を、新聞で読んだことがありますよ。
ありがとうございます。
(京都新聞までも)
よろしくお願いいたします<(_ _)>
明日みなさんとお目にかかり、直接にもお祝いを申し上げることができれば何よりなのですが、私は、19時まで大阪市内での仕事があって、分科会に駆けつけることは、そしておそらくはオンラインで参加することも、できないかと思います。
送る会などあれば、その終わりのほうになりともはせ参じることはできたのですが。
担当させていただいた皆さんには、もし機会がありましたら、ご卒業おめでとうございます、これからのご健筆に心から期待しています、とお伝えくださいませ。
『列島哲学史』(みすず書房)の特集記事、紙媒体のほうは、明日の朝刊に掲載されるようです。
今朝の京都新聞デジタル版で、拙著『列島哲学史』(みすず書房)について、インタビュー記事の形で大きくとりあげていただきました。
www.kyoto-np.co.jp/articles/the...
「送る会」自体が行われないということを、今初めて知りました。
オンラインは、コロナ禍の非常事態下で必死に編みだされた、ギリギリのコミュニケーションの方法でした。
確かにオンラインには、それまでできなかったことを可能にするメリットがあります。でも、それはあくまでもコミュニケーションの「一つの方法」のはずですよね。
まして卒業は、一度きりの大事なきっかけ。遠方からきていただく方には負担になりますが、京都の大学で学んだ意味をかみしめる機会にもなる。送る会はあってほしかったですね。
卒業式の分科会で言葉を贈ることは難しいかもしれませんが、その場合はあさって、この場で公にします。
どうかお許しください。
非常勤先の大学の卒業式への、任意での参加案内が、大学から二日前の先ほど、初めてメールで届いた。信じられないこと。
講師を何だと思っているのだろう。
かつてであれば、もっと早く案内がきていたし、卒業生を送る会への参加案内が、私のところにまで来ていた(だから参加していた)。
非常勤講師によって支えられている現場のはずなのに。
私は自分の読んだ本を、「わかる―わからない」、「面白い―面白くない」という二つの軸からなる四つの象限に位置づけてみることがある。
そのなかで一番評価が高くなるのは、「わからない―面白い」というカテゴリーだ。
よほど面白くない限り、「わかる」こと自体には価値を置かない。それがマイルール。
無条件降伏という考え方を否定するという一点において、21世紀の人類社会は一つの目標を共有しうるでしょう。その社会で名誉ある地位を占めてこその日本。そうした未来的展望をもつことのできない政治家には、決して国政を左右しうる地位を与えてはならないと思います。
「"力による平和"の思想」という表現は、批判としての意図を持つとしても、曖昧でミスリーディングな言い方だと感じる。「無条件降伏の思想」と言い切るほうが正確だし、未来的ではないか。原爆を落した米国にも今の米国大統領にもそれがある、日本の現政権はどうか。日本のメディアはそう問うべきだ。
風の通り道。
宮本常一『忘れられた日本人』の「土佐寺川夜話」にも、〈茶の葉をむしてそのまま締木でしめてくさらしたもの〉と出てくる。土佐・伊予・阿波の四国山間部に伝わる茶を発酵させる製法。
今回の帰省でいちばん驚いたのは、いつも買って帰る碁石茶が棚にないので店員さんに尋ねたら、作り手のおんちゃんが作れなくなって製造をやめたとのこと。ショック…。
碁石茶は今年1月に重要無形民俗文化財に指定されたばかり。我が家にこれだけあるのが最後。
(別のメーカーの碁石茶は出ています)
青木真兵さんの『資本主義を半分捨てる』(ちくまプリマー新書)を読む。
奈良の東吉野村に私設図書館を開いて生き方の拠点とすること自体、すでにラディカルな姿勢の表現なのだが、在野の活動が陥りがちな二項対立的な硬直性にも、アリストテレス的な中庸の精神で向き合おうとする、タフな批評精神を感じ、感銘を受けた。
【イベント情報】神田神保町「読書人隣り」にて行われるトークイベントのお知らせです。
〈日本の思想とは何か? 継承の可能性をめぐって〉
原武史×野口良平トークイベント(司会:長瀬海)
3月31日(火)19:00~ 来場&オンライン(アーカイブあり)
📚詳細・お申込みは以下をご覧ください。
dokushojin.net/news/1280/
ぜひ読んでみます。
それにしても今度の群像は盛りだくさん。
ガザの人口は230万人程度。一方,イランは9,300万人。
イラク戦争当時のイラクが2,500万人で,あれだけ影響があったわけですから,一億人近い規模の国が不安定化したらば,その影響は世界的に長期にわたって波及するのは蓋然性が高いシナリオであるように思います。
個人の醜聞がここまで世界規模で破壊をもたらすというのは,権力と資本と武力が1人に集中する世界がどれだけ脆弱であるかをよく示しているように思います。
トランプの説明するイラン攻撃の目標が二転三転し,まったく定まらないのは,エプスタイン事件から目を逸らすために始めただけで,追加文書が公表されれば,目を逸らすためにさらにイラン攻撃を長期化させる,という流れになっているように見えます。
その結果起きることは,良くても「イランのガザ化」だと思いますが,ガザの現状にイスラエルもアメリカもなんの責任を果たすつもりがないのと同じように,イランでも結果をどう落ち着けるかは一切考えていないでしょう。
www.asahi.com/articles/ASV...
原爆投下について、西洋思想の底流にあったニヒリズムと結びつけてとらえていた、鶴見俊輔の解釈をも連想します。戦後の丸山真男には、西洋思想を理想化することで戦時を耐え抜いたときには、このニヒリズムが見ぬけなかったことへの恥じらいの感覚があったと。
この小説読んでみます。
大江健三郎未発表小説ふたつ読んだ。ヒューマニズムへの批判が行われてることに驚いた。というのも、『ヒロシマ・ノート』の主題がまさに「新しいヒューマニズム」だったから。今回発見された作品にはユマニスト党なる過激派がでてくるが、ここにはフランスのラブレーを通してユマニスムを論じていた大江の師匠・渡辺一夫の影響があるのは間違いない。作中では「ヒューマニズムは本来、そういう残忍さをはらんでいる」と言う。そこから、原爆の投下が「ヒューマニズム信仰」の結果だと考えた『ヒロシマ・ノート』へは遠く離れていない。戦後的な閉塞感からの脱出と、その試みの失敗。といった主題が、このあと変奏されていったのだろう。
ご卒業おめでとうございます。
ご努力に頭が下がります。
お話を伺えなくて残念でしたが、よいコメントをいただけたのは、ほんとうによかったです。
イベントのお知らせです。
3/31(火)19時より、東京神田神保町(読書人隣り)において、昨年『日本政治思想史』(新潮選書)を刊行された、思想史家の原武史さんとの対談イベント、「日本とは何か? 継承の可能性をめぐって」が行われることになりました。
司会は、拙著『列島哲学史』(みすず書房)への書評をwebみすずに書いてくださった、書評家の長瀬海さん。
オンライン配信も行われます。
どうぞふるってご参加ください。
dokushojin.net/news/1280/?d...