『典座教訓』を読むと、『〜修理技術』が禅の影響下で書かれたことがよくわかる。主体・客体の別を乗り越えた、主客一体・物我一体の境地こそが、『〜修理技術』の著者のいう「クオリティ」の本質に関わっていると思われる。本エッセイではそのあたりを重点的に説明している。
『典座教訓』を読むと、『〜修理技術』が禅の影響下で書かれたことがよくわかる。主体・客体の別を乗り越えた、主客一体・物我一体の境地こそが、『〜修理技術』の著者のいう「クオリティ」の本質に関わっていると思われる。本エッセイではそのあたりを重点的に説明している。
さて、同書を読んでいて即座に思い出したのが、禅宗の一派である曹洞宗を日本に広めた道元が、中国での修行時代に出会った「典座」(修行僧のための料理係)に関するエピソードである。
道元は、その老いた典座に、料理の仕事ばかりしていては禅の修行をする時間がないのではないか、と問うと老典座は笑って「お前は禅の修行というものがまだ分かっていないようだ」と諭す。その言葉に大きな感銘を受けた道元は、修行を終えて帰国した後、典座の心得を説く『典座教訓』を書いている。
1974年にアメリカで出版されるや否やベストセラーとなり、全世界で500万部以上を売り上げた『禅とオートバイ修理技術』は、息子とのアメリカ大陸横断の旅についての紀行文に、著者が「クオリティ」と呼ぶ、認識論上の問題についての考察を織り交ぜたもの。この哲学的考察が、道中で彼等が乗っていたオートバイの修理を引き合いに出して展開される。
エッセイ「『禅とオートバイ修理技術』と『典座教訓』が教える、仕事への取り組み方」を書きました。
fukuchi.org/essay/2026/z...
ここ最近はずっと修理・修復について書いてますが、修理といえば『禅とオートバイ修理技術』について触れない訳にはいかない、ということで取り上げました。
これは懐しい。
エッセイ「ルールを『修復』する」を書きました。
fukuchi.org/essay/2026/r...
先月書いた、「『修理する権利』は『遊ぶ権利』である」の続きとして書いたものです。
2019年に出版された『ゲーム学の新時代』に寄稿した「コンピュータゲームが社会規範を拡張する」という論考で紹介した、ラサール石井が子供の頃に経験した、野球下手の石井用特別ルールについてのエピソードを引き合いに、壊れたゲームバランスをルール改変で「修理」する経験を、子供は積むことが大事なんじゃないか、ということを書いてます。
なのになんでスマートフォンは5年も使うとそろそろ買い替えを検討しないとならなくなるのか、とかいったことを考えたもの。
ところで、同じものを使い続ける理由の一つとしてよくあがる「愛着」については今回取り上げなかった。というのも、愛着を持ち出さずに語れるならそうしたい、という気持ちがあるからだ。なんでかと問われるとよくわからない。
エッセイ「修理および計画的陳腐化についての雑感」を書きました。
写真の時計はかれこれ40年近く使い続けているもので、しかも買ってすぐくらいに興味本位で中のムーブメントに至るまで徹底分解したにも関わらず、順調に動いている。
fukuchi.org/essay/2026/o...
修復の面白さは、それがけして元通りにはならないところにあるのではないか。
私は家電製品や建具などを自力修理するのが趣味なのだが、修理するたびにそれらはちょっとずつ別の何かへと変わっていくのを感じる。端的には「自分が手をかけたもの」へと変貌していくのだ。
そうして、「本来の姿」という束縛が緩むにしたがって遊びの余地が広がる、ということを本稿では述べている。
世の中、いろんな製品がどんどん修理しにくくなる一方であり、この状況には怒りすら覚える。国内でも「修理する権利」意識をぜひ高めていきたいと思ってこんなエッセイを書いてみた。
「『修理する権利』は『遊ぶ権利』である」というエッセイを書きました。
金継ぎされたソーサーが、ソーサーじゃないものに見えてきて他のものを置いてみたくなるという、あるテレビ番組での常盤貴子さんの発言をヒントに、修理や修復の面白さについて語ったもの。
fukuchi.org/essay/2025/r...
昨日のエッセイの続きで、「誰が『百聞は一見に如かず』の続きを作ったのか」を書きました。
fukuchi.org/essay/2025/s...
よく「百行は一効に如かず、百効は一幸に如かず、百幸は一皇に如かず」とか書かれているアレはどこから出てきたのかを調べてますが、いまのところまだ作者不詳です。
「百聞は一見にしかず、百見は一◯にしかず」というエッセイを書きました。
fukuchi.org/essay/2025/s...
「百見は一体験にしかず」とか「百見は一触にしかず」みたいなことを言ってしまうときの「見」の価値がどのように変遷していったかを考察したエッセイです。
ちなみに「百見は一◯◯にしかず」という表現は目新しいものではなく、明治時代にまでさかのぼれます。見ることの価値低下が起きているわけですが、これが写真の普及と関係あるのでは? という作業仮説をここでは立てています。
これまで私が手がけてきたインタラクティブ展示を題材に、こうした展示を設計する上で検討すべきことを整理しています。主に、時間と空間のそれぞれを段階別に分類して議論しています。時間の方は瞬時・短期・中期(・長期)のそれぞれで設定すべき目標があり、また空間の方は、展示作品からの距離に応じてどのように作品や体験の様子が見えるようにすべきか、を解説しています。
先月にコロナ社から発売になった書籍『メディアテクノロジーシリーズ 11: インタラクションデザイン- 生活・技術・人をつなぐデザインのかたち -』の第5章「不特定多数を対象とするインタラクションデザイン」を担当しています。その内容について、遅ればせながら紹介記事を書きました。
fukuchi.org/essay/2025/i...
福地研の Web ページを全面的に改修しました。
fukuchilab.org
いままで Wordpress で運用していたのを、Hugo による静的サイトへと全面的に切り替えました。
「間違いだらけの『マシュマロ・チャレンジ』」
スパゲティ乾麺で塔を立て、てっぺんにマシュマロを載せ、その高さを競う「マシュマロ・チャレンジ」について、ネット上には「PDCAを学べる」「チームワークが重要」といった誤った解説が溢れているのに業を煮やし、解説記事を書きました。
fukuchi.org/essay/2025/m...
先のエッセイの派生で、「ボルタ電池についての文献を読むときの意外な落とし穴」というのを書きました。
いまどきボルタの時代の文献に目を通すこともないとは思いますが、電極についての記述で意外な落とし穴があるので、調べものの際にはお気をつけください。
fukuchi.org/essay/2025/v...
紫藤貞昭はフロギストンのことを「マイナスの酸素」と位置づけ、燃焼のプロセスをなまじ中途半端に正しく説明できていたが故に1世紀近くも残ってしまったと指摘しています。
そんなことを調べているうちに、電流の向きが電子の流れる向きと反対だった話と比べてみたいと思ったのでした。
フロギストンは様々な観測事実との辻褄合わせのために、後づけでいろんな理屈が付け足された挙句に、ラボアジェの酸素説に破れて消えたわけですが、これは地球平面説のような疑似科学が、やはり辻褄合わせでややこしくなっていくのを連想しました、てなことを書いてます。
「フロギストンと正統科学」というエッセイを書きました。「フロギストン」のことを単に、ものが燃えるプロセスについての、昔あった間違った仮説、くらいに思っていたのですが、調べてみるとこれが結構奥が深い…とまでは言わないまでも面白い代物であることを知りました。
fukuchi.org/essay/2025/p...
先日掲載したエッセイに記した、白色LEDの仕組みについての問題について解説しました。同問題はある意味でのひっかけ問題になっているので、ぜひ答を確認してみてください。
fukuchi.org/essay/2025/w...
世間で「考えさせる問題」と評価される問題が、かえって考える習慣から学生を遠ざけていやしまいか、という懸念を書きました。
fukuchi.org/essay/2025/t...
寺山修司の有名な言葉「書を捨てよ、町へ出よう」には、「町を書物のように読んでみよう」という続きがある、とどこかで見かけた覚えがあるということは以前にも書いたが、あらためて出典を探ってみた。
出典を探る内に、藤本智成の論文「『地の糧』を読む寺山修司」を見つけ、どうやらそれらしい言葉に辿り着くことができた。またそこから、寺山が元ネタとしたジッド『地の糧』からどのように寺山が改変を加えたかを見ることで、寺山の目指した境地について少し理解が進んだ。
fukuchi.org/essay/2025/t...