礼記に「無実の者を殺すよりは大罪の者を見逃したほうがマシ」という記述があるのを知り、人類は紀元前から冤罪に対する正しい認識を持っていたんだと感動した。なのに、どうして……
礼記に「無実の者を殺すよりは大罪の者を見逃したほうがマシ」という記述があるのを知り、人類は紀元前から冤罪に対する正しい認識を持っていたんだと感動した。なのに、どうして……
最近聞いた話なんだけど、「人間はごっこ遊びや演技を通じて規範を内面化する」のだそうな。人間は与えられた社会的役割に沿って振る舞い、その振る舞いが人格に影響する。職業倫理や大人のペルソナを演じることも社会的に求められる役割に対する適応という話。
これを援用すると、SNSにおける露悪的な物言い・過激な主張は、最初はただのブラックジョークのつもりでも徐々に人間の人格と倫理をそれに適合するように作り変えていくのかもしれない。
Welcome to Undergroundとヘルズゲート・地獄の門と言うネタを間違えるくらい記憶力が衰えていて年は取りたくないと思った
冲方丁はクリスチャンなので神の国を地上に降ろそうとするのですが、それが極めてこんなのも知っていて、だからこそ世界は残酷だということも書ける。それでもなお、人の善性を称揚し、かくあるべしというありかたを示す姿は、素晴らしいものだと思います。
そういえば、冲方丁先生の「スプライトシュピーゲル」4巻で、輝くシーンがふたつ記憶に残っています。世界のセレブたちとともに主人公たちが世界運営ゲームを行うシーンで、水不足が問題になり、水資源生成技術を独占したPL(年端も行かない少女)が、「こんなのやだ! 特許を公開する!」って言って、PCが暗殺された後、プレイヤーが一致団結して彼女の国を救ったシーンと、その後の、ゲームに参加したPLたちが殺されていく中、PLのひとりのFBI捜査官が「アメリカの善は最善ではないが、最新の善だ。わたしはリトルロック高校に通学する黒人生徒を護衛するため82空挺の出撃を命じた連邦政府を信じている」と言ったシーンです。
流石に地位も実績もあるTRPGの大御所が、デマインフルエンサーや参政党のシンパアカウントを頻繁にRPしてくるのを見ると、激しい辛さを感じてしまう昨今。気をたしかに……。
ふと思い出したのですが、P.K.ディックがハインラインについて「ハインラインはいいやつだ。金も貸してくれるし何くれとなく面倒を見てくれる。考え方や作品は相容れなくてもだ。そういうやつは、いいやつなんだ(うろ覚え)」と言っていたと聞いて、ぼくの中でのハインライン観がかなり変わりました。
そういえばですね、先日NHKを見ていたら、三波春夫の浪曲で松の廊下を題材にしたやつをやっていたので、忠臣蔵復活の気配を少し感じました。ここんとこ音沙汰なしだったので……(歌舞伎とかでは通常営業ならごめんなさい)。
色々な方から誕生日プレゼントもらっているので、返礼をしつつあります。誠にありがたく存じます。
ところで別件でわがままなやつを相手にして言うことは聞かないわメンツは潰されるわで大変だったので、もうそいつの面倒は一切見ないことにしましたわよ。
ぼくは幸い色々なコストを払ってもらえる存在なので、それに対しては応えないとな、と思いつつも、ぼくからこいつにコストを払いたくない、という人間は一定間隔で一定でてくるので、人徳のなさを感じてしまっている。ままならん。
人脈、というカードを少しイラっと来ただけで捨てカードにするぼく、永遠に友だちが増えない()
今日はぼくの誕生日なのでした。冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし。そんなわけで(どんなわけ?)欲しいものリストを貼ります。何かもらったからと言ってそれ以上のものを返せるほど、立派な人間ではありませんが……。
www.amazon.co.jp/hz/wishlist/...
本来、文章というメディアは思考の速度を遅くして読者と一対一でじっくり向き合うことが可能なはずだが、「言及」を求めるSNSの圧力を当然のものと思うと、その長所は消え、単に速度と情報量において絵や動画に劣るメディアになってしまう。ここに自覚的でない作家、研究者、ジャーナリストは、SNSによって文章力のコアの部分を破壊されてしまう。そうやって狂っていった人を、わたしたちはこれまで数多く見てきたはずだ。
本屋の面陳に吃驚して購入。Ⅱ と有る以上 Ⅰ も出てるのだとは思うが見つけられず。元々ラスやらル-グインやらマッキンタイアとの関係に興味があったのでまあ(Ⅱだけでも)要は足りるかなと。
ブルスカ、インプレゾンビがわかないのとインプレが基本的に表示されないのと、物事を割と長めに書けるところから、Xで見かけたものに対して直接言及するより、一旦おいてブルスカに書いたほうが色々と安定的になると思っている。そういう意味では「遅いインターネット」なのかもしれない。
共感には限界があり、全てに共感する事はできない、ということを盾にしつつ、その後ろにとんでもなく自分勝手な本音が隠れているのを目にした。
「戦争体験の語り部は社会の上層に座っていたが、いまやその記憶も語りも不要だ、彼らの時代は終わった、捨て去ってしまうべきだ」という本音。
なんだ、はなからそれを言いたかったのか、それならこう言えばいい。
勝てば官軍、どんなに理の通ったものであってもぜんぶ打ち壊し、どんどん捨てろ、と。
共感なんて上等な言葉を混ぜる必要もないだろう。
生前、親戚の婆さん(伯父の妻の叔母だったはず)は「室蘭空襲の時は、艦載機に乗ったソ連人のパイロットの目が見えた!」と語っていた。
もちろん、「ソ連」というところは「アメリカ」である。しかし話しているとき、一拍おいて出てきた単語が「ソ連」であった。以降「ソ連が」と繰り返していた。
コトバがうまく出てこず、似て非なるコトバを発する。それも、お年を召すとよくあることである
そういう枝葉末節は、いささかも話の真意を損なうものではなく、聞いてる者が解釈するべきものである。
北海道にはB29による大規模爆撃はなかったらしいが、艦載機の機銃掃射の話はわりと聞いた。
中公新書『ロシア国籍の日本人の記録』の著者は、満州においてソ連と戦った、生涯唯一の戦闘経験という鮮烈な記憶さえ、時を経て思い出すと「なかったはずの光景」が脳裏に浮かんで仕方がないといってた。
実際にはしなかった「部隊長が軍刀を煌めかせて銃剣突撃を命ずる」という、後世の日本軍イメージに回想が浸食されている。しかも当人もそれを自覚してもなお脳裏に浮かぶという。
記憶というのはむずかしいとのである。自らの記憶についてもかくも難しい。いわんや他者の記憶の聞き取りとなると。
最新話公開されたよ!!!
『女甲冑騎士さんとぼく』第66話 - 青井タイル/ツナミノユウ | COMIC OGYAAA!! [ comic-ogyaaa.com/episode/1220... ]
X方面の例のアレ、ついに「共感しない自由」まで持ち出してきた。なら、お前のその思想に共感しない自由もあるし、それを延々やり続けるのは最終的には万人の万人に対する闘争になるぞと、なぜそれがわからないと思ったのですが、ネットトロールとは本来そういうものだから仕方がないか……と嘆息。
「楽園 Le Paradis」最終となる50号発売中です。読切「続・スターリングラードの凶賊」が載っています。東部戦線ウェスタンのスピンオフですよ。他に掲載されているのも面白い漫画勢揃い。でもってシギサワカヤさんの表紙もめちゃめちゃ素敵。どんどん買ってね読んでね!
悲惨な、言葉にならない体験をした人間、記憶が変容してもなお覚えているその恐怖と苦痛に寄り添わず、意気揚々と囲んで棒で殴っているやつには、一方的に殴られる痛さと怖さを教えてやりたくもなるのです。
記憶/物語の問題に端的な事実だけ突きつけて、証言者に対して嘘だの自意識過剰だの馬鹿だの妄想だのっていうの、端的に言ってクソと言う事例をアホみたいに多く見かけるXは地獄のように熱く、サツバツとして絶えられないので、犬でさえも川に飛び込んで逃げ出す。逃げ出した。
なんで彼らはああも得意げなんだ?
それでも「記憶」だけを伝承するのはいかがかと思いますが、「記録」さえも「なかったことにする」厚かましいヤカラが多い中、仕方があるまいという諦観はあります。
記録をもとに「何年何月何日にXX地方は米軍艦載機何十機の攻撃を受け、死者何名負傷者何名焼失家屋何棟その他の損害を出した」と正確に記述することはできるけど、これだと被害を受けた人が一生抱えていく「とんでもないものに襲われすごく恐ろしい目にあった」という感覚は抜け落ちちゃうんだよな……
戦争被害に関して「語り部」を本人以外がやるということはネット上だと評判が悪く、確かに正確性という点では問題がありうるのは間違いないんだけど、戦争被害を受けた人は「正確な記録」とともに生きるのではなくて、記憶とともに生きていくわけだから、伝えたいのは記憶の方だという難しさがある
そもそも「粗にして野でも、卑ではない」と言う言葉があるように、人格は教養や文化資本とは無関係に存在している部分がありますね。教養はそれをより深めることができるかというと、ぼくはいわゆる「知の巨人」と言われる人々の人格的頽落も見てきたので、疑惑しかありません。
これもまた極論ですが、教養というのはある種のテクニックに過ぎず、それの有無をもって人間の価値を測ろうとすること自体が誤りなのではないでしょうか。少なくとも教養があると自負する人間はこのことを理解すべきなのではないか。
(まあそういう「自負」のある人間ほどこれを受け入れるのは難しいんでしょうが)
「教養の本質」とは(普遍性を持った)物事の要点を掴む知の技法・思考法と、それに紐付けられ、よく体系化された知識の複合体であり、かつそれらを日常の中でほとんど無意識・反射的に使役・応用できる能力のことにあって、それは人徳を涵養するものとは限らないわけです。
しかし、任意の何かにクズが存在するからそれに何の意味がある?という話が極論であるように、教養人にクズがいるから教養に何の意味もない、という話も極論じみている気はします。我々は教養を神聖視しすぎなのではないだろうか(感情としてはとてもよくわかるのですが)