今年の252本目は『Adventurous Ambrose』を観た。不完全なL-KO映画。モリー・マローンはフォードの世界と喜劇映画の世界を行き来したひときわユニークな存在だが、L-KOでよりによってマック・スウェインと共演しているとは...。ここではボビー・ダンも、珍しくリッチな紳士として顔を出している。
今年の252本目は『Adventurous Ambrose』を観た。不完全なL-KO映画。モリー・マローンはフォードの世界と喜劇映画の世界を行き来したひときわユニークな存在だが、L-KOでよりによってマック・スウェインと共演しているとは...。ここではボビー・ダンも、珍しくリッチな紳士として顔を出している。
今年の251本目は『Under New Management』を観た。不完全な状態ではあるが、ガートルード・セルビー、アリス・ハウエル、そして目立たないがエヴァ・ネルソンというL-KOのコメディエンヌを一望出来、ヘンリー・レアマンがどれだけこうした役者たちを重用していたかが伝わる片鱗。
今年の250本目は『Gertie’s Joy Ride』を観た。公園で女性を奪い合う映画は初期チャップリンもしつこく撮っていたが、ルノワールみたいな水上の場面で始まる本作のヘンリー・レアマンは、意外に堅実な姿勢で悪くない。ハンク・マンがガートルード・セルビーの恋人に嫉妬するキモい表情が最高。
今年の249本目は『Their Last Haul』を観た。どう見ても空の金庫を巡って悪党たちと警官、アリス・ハウエルがビルの壁面を行き来する。動きやギャグ、表情は完全にスルーし、意匠だけをチャップリンに寄せたハンク・マンにはコメディアンとしてのこだわりがあったのだろう。
今年の248本目は『The Dumbwaiter』を観た。カリスマウェイター、ボビー・ダンのホスピタリティには限界が無い。意味はかなり違うかもしれないが、全盛期のマイケル・J・フォックスを思い出してしまう。後半のチェイスでダンと似ているために襲われる男が登場するが、何という役者だろう?
今年の247本目は『Havsgamar』を観た。メロドラマの中をウロチョロする狂人だけが真実を知っており、真実に近づくことを恐れない。けだし、狂ってからの勝負というのはシェストレムの得意とするところなのだ。狂っているからこそ見え、感じる敏感さがあるということを、この映画は最短距離で見せる。
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今年の246本目は『Should Tall Men Marry?』を観た。死なない程度の暴力のバリエーションを追求した、サイレント喜劇の終末感すら漂う映画。明らかに映画に出ることに飽きているマーサ・スリーパーと、これからが本当のキャリアの始まりとなるローレルとのギャップはプロ意識によって埋められる。
今年の245本目は『Flaming Fathers』を観た。個人的には主役のマックス・デヴィッドソンよりもタイニー・サンドフォードの警官の方が輝いていたように思う。デヴィッドソンのキャラクターは、この平和そのものの喜劇にあまりに馴染み過ぎる。マーサ・スリーパーも本作では何もしていないに等しい。
今年の244本目は『Fluttering Hearts』を観た。チャーリー・チェイスがマーサ・スリーパーと組んだ映画には佳品が多く、これもその一つである。チェイスが大富豪という設定が途中からどうでも良くなるという緩さはあるものの、ハーディを巧みに誘惑する等身大の人形劇はかなり笑える。
今年の243本目は『Jewish Prudence』を観た。殆どの喜劇映画からは、過去の設定なり背景を想像させる余地はない。どんなにメチャクチャな詐欺師まがいの男でも三人の子どもを育てられる奇妙な世界...、あるいは物凄くハードな悪事を働いたあとでこの映画が始まっているのかもしれない。
今年の242本目は『Laughing Ladies』を観た。道ゆく人を小突き、自転車で爆走、おじさんをナンパし、ローラーコースターに飛び乗り、最後は何故かガンマンになるというキャサリン・グラントの狂女の輝き。シーンの欠落があるのか、これを観る動機だったマーサ・スリーパーが見当たらず残念だった。
今年の241本目は『The Artist’s Dilemma』を観た。初期ヴァイタグラフ。本篇はほぼメリエスなのだが、モデルや道化、さらには絵から抜け出てくるもう一人のモデルらの賑やかな夢幻が消え去った後の画家の虚脱ぶりが凄い。役者が本当におかしくなったように見える。これは演出されたものなのかどうか。
今年の240本目は『The Flat Dwellers: Or, The House of Too Much Trouble』を観た。典型的かつ悪夢的なタブロー空間で空しい闘いに明け暮れる役者たち。建物の外につまみ出されることで、タブローの呪いが解けたように身体のあり方がカサヴェテスの映画のように変貌する。
今年の239本目は『North Sea Fisheries, North Shields』を観た。港町ノースシールズで談笑しながら魚の内臓を抜いている少女たち。カメラの前に集まる男たちの立ち居振る舞いはどこか荒っぽく、やらせかもしれないが喧嘩が勃発したりする。「Shipbuilding」の歌を想起させる世界。
劇映画の撮り方を分かっていない人が撮った劇映画、あるいは正しい劇映画の作法というものが存在しない世界からやってきた劇映画かもしれない。
今年の238本目は『Arrest of Goudie』を観た。傑作。ミッチェル&ケニヨンによる劇映画は何本か観ているが、これは圧倒的に面白い。横領の罪を犯し潜伏していた犯人を家主の密告により警察が逮捕する、という一連の出来事を、森の動物が一心に見つめているかのような態度で再現している。
今年の237本目は『Sedgwick’s Bioscope Show Front』を観た。移動遊園地での寸劇とイベントの告知。映画に映るためだろうか、大勢の人々がステージから溢れ出てくる場面もある。ミッチェル&ケニヨンの映画は観客が自分の姿を「他人があなたを見るように観る」ためのメディアでもあった。
今年の236本目は『Panoramic View of the Morecambe Sea Front』を観た。ミッチェル&ケニヨンの観光映画。馬車からのPOVで、カメラを追いかけてくる子どもたちや路上の人々と背景のモアカム湾を映し出す。この映画でも途中に広告看板が映っているが、宣伝効果は抜群だったろうと思う。
今年の235本目は『Messrs Lumb and Co Leaving the Works, Huddersfield』を観た。ミッチェル&ケニヨンによる地産地消映画は、興行主や企業から依頼を受けて撮影され、演芸やバンド演奏と映画を組み合わせた二時間ほどのプログラムで人気を博したらしい。ドイツのマルツェン一家に似た映画のあり方。
今年の234本目は『20,000 Employees Entering Lord Armstrong’s Elswick Works, Newcastle-upon-Tyne』を観た。犇めき合う群衆の身体を捉えたミッチェル&ケニヨン。ブライトン派にも似たものがあるが、犇き具合ではこちらが圧倒的だ。手前を横切る馬車が一瞬視界を遮り、人々は徐々に笑顔を見せる。
今年の233本目は『Cork Fire Brigade Turning Out』を観た。アイルランドでの消火活動を再現した擬似ドキュメンタリーのようだ。そのため、カメラの前を偶然のように通過する商用車はスポンサーなのだろう。映画が芸術や娯楽であると同時に、経済活動の一部であることを思い出させてくれる。
今年の232本目は『Les Béquilles』を観た。家主に無許可で映画を撮影していたために不慮の事故が起き、役者が療養中にその家の娘と恋仲になる。非常に下らないのだが資料的価値は高い、という無数に存在する仲間の箱へ入れられる運命にある映画だが、レオンス・ペレが目立たないのがいい。
今年の231本目は『Séance de spiritisme』を観た。率直に言って、レオンス・ペレは喜劇に向いていなかったと思う。ところが監督本人が嬉々として出演もしているばかりか、「コイツさえ居なければもうちょっと面白い筈だ」と思わせる高圧的な親父キャラでただならぬ不快さを映画に齎している。
今年の230本目は『Le barbier fin de siècle』を観た。床屋を舞台に残酷劇を撮ろうという気持ちは分からないでもないが、なぜわざわざ頭を切り離すのかという疑問は残る。ギィの『世紀末の外科医』はこの4年後なので、この分野に関してはパテがゴーモンに先んじていたことになる。