青空ビール
青空ビール
ギャリーの本など読んでいたから、今回の「ひとりドキュメンタリー酒」は、この作品を紹介してみた次第。この映画にもマネートレーダーの男が出てきて、そのほか三人の労働者の男たちと対比される存在として描かれている。サッカーブラジルワールドカップの開催をひかえて、社会が混乱していく様子は、オリンピックや万博で右往左往した日本を思い起こさせる。劇映画風のキメキメのショットと巧みな編集が魅力の作品だ。この作品は山形ドキュメンタリーフィルムライブラリーのビデオブースで無料で見られるし、映画祭事務局から上映素材を有料で借りて、自主上映会も開くことができる。cat≒137でもいずれ上映するかもしれない。
最近ギャリー・スティーヴンソンというイギリスの経済学者に注目していて、彼は労働者である一般家庭の出でありながら、並外れた数学の才能でもってシティバンクのトレーダーとして若くして巨額を稼いだひとで、そこで度し難い格差社会を目の当たりにして白けてしまい、その後は富裕層に課税を求める左派系経済学者として活動している。パズルを解くような数字の売り買いで世界経済が動く一方で、労働者はその資本主義の枠組みのもとで、経済的な苦境を耐えている。その構造の歪みをブラジルで暮らす四人の男たちの群像劇で描いてみせたマリア・アウグスタ・ラモス監督の『6月の取引』を2015年に山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映した。
世の中の動きに、少しばかり身体も精神も影響を受けているようなので、よろしくない。体内に一定のリズムが戻ってくるまで情報からは遠ざかっておいてみる。
猫の日なので、生魚を買いにちょっと漁港まで出かけてきます。
あしたはねこのひ
あたらしいつめとぎきにいった
エーリッヒ・フロムが「存在し、愛し、憎み、苦しむ人間の現実から出発すれば、あることはみな同時に、なることであり、変化することである。生きている構造は、なるときにのみありうる。それらは変化するときにのみ存在しうる。」と書いていた。「在る」ことは「変化」することであるという指摘は憶えておきたい。
日本語で言うところのいわゆる「ノスタルジー」という手垢がついた表現が嫌いで、その言葉に吸収されてしまう些細で雑多な感情とイメージには、もっと複雑で得体の知れないものがあって、誤解を恐れずに言えばそれは「宇宙」みたいなものと同じだと思っているから、日本語の「ノスタルジー」が持つ矮小化への力は暴力にも見えてしまう、ということだ。
しんけんなまなざしのさきにちゅ〜る
SKIPシティ国際Dシネマ映画祭打ち切りのニュースに、鳩尾あたりがキューっとなる。老舗の広島国際アニメーションフェスティバルや福岡のアジア・フォーカスが軒並み2020年で終了して、日英両併記刊行物、日英字幕、多言語通訳を備えた、地方発の正しい「国際映画祭」は一気に少なくなった。山形国際ドキュメンタリー映画祭はなんとかコロナ禍をオンライン開催で乗り越えて、2023、2025と通常開催にこぎ着けたが、同時代にそれぞれの場所で映画表現の可能性に果敢に挑んでいた他の映画祭のことは、勝手に同志と思い込んでいた。Dシネマさんとは上映素材のやり取りなどもあったから、なんとも辛く苦しいニュースである。
きょうもいいこにしていましたね
2年ほど前の引っ越しの際に、書籍のほとんどを処分というか売りに出してしまった。そのなかにはミステリやSF小説も多くて、エンタメ系は悉くいま手元にない。さいきん妻が『十角館の殺人』のドラマを観たとかで、本格ミステリ熱が再燃して、新本格隆盛時の作品紹介をYouTubeで見ているようだ。あの当時の(今となっては)懐かしいタイトルが出るたびに「持ってたよね、貸してちょうだい」と言ってくるが、私には「今はもうない」と答えるしかなく、そのたびに妻は地団駄を踏むのである。そういえば、森博嗣の作品に『今はもうない』というのがあった。当時は実に面白く読んだはずだが、それも今はもうない。
さいきん酒を飲みすぎている。酒という快楽に従順になりすぎている。
もぐってでた
たとえどんなことであれ、世のすべては常に変化し続ける、という事実だけは変化することはない。との言葉を今日読んだ。「諸行無常」としたり顔で理解することは簡単だが、それではいけない。いまずうっと「変化」とはなんのことであろうかと考えているが、ぜんぜんわからない、明日もそれを考えたり考えなかったりするだろう。
岡本太郎の「なんだ、これは!」なる驚きと感嘆の言葉を、日常のありふれた物事を前にして改めて口にしてみると、普段見ていたものとは違ったものが立ち上がってくる。位相が拓かれるとも言い換えられるかもしれない。この言葉が促すのは、目の前にあるモノへの精緻な観察と、その細部から立ち現れる思考だ。それを言語表現にして、読み手のそばにそうっと置いてみるという意識で私はこの雑誌で映画コラムを書いてきたが、それは読み手の「生」に勝手ながら近づきたいという意識の現れで、すなわちそれは私の「生」もまた読み手との相互関係のもとで変化するはずだということの実践でもある。ということを今回の連載59回目(たぶん)で書いた。
私のなかで、ペケとかいうものになったツイッターは怖いもの見たさでその醜悪さを体感するだけの自虐を含んだ向き合い方をするものに変わり、もう自分からなにかを書くことはいっさいしなくなって久しい。ここ数年はずっと、掲載してもらった原稿をただただ発信するだけのものであったのだが、先の選挙のときは思わず自分の言葉を書いてしまった。5、6年ぶりくらいのことであった。
社会というか世間というか、そういうところで前提として流通している価値観というか世界観は、当然ながら科学主義に則っているわけだけれど、いまこの世界で誰も経験したことがないにもかかわらず、極めて身近で、必ずやってくるものでもある「死」については、未知であるがゆえにあらゆるものの外側にあって、既存の価値観からも自由であり、とうぜん科学的、医学的な見地からもずうっと遠く離れたところにあると思っているので、「外側に」向けて思考を拓くと、見方によってはオカルトを語っているようにしか見えない、ということが起こる。
去年の映画祭で、インドの詩人で映画監督のバッパディティア・サルカールさんにインタビューしたとき、極めて政治的な内容の話のなかで、ふとバッパディティアさんが一緒に暮らしている猫の話になり、当たり前に猫と会話してる、もっと言えば心を通わせ合っていると言っていて、それは私も日々実感していることでまさに同感であったのだが、人間がこの世界の中心だとはまったく思っていないとそのあと彼が言ったので、私は猫や犬にとどまらず、動物ないし生物全般と対話および思考を交わし合うことが可能だと、多くのひとがそう思えていたならば、この世界はこんなふうになっていなかったに違いないと、瞬間的に思ったことを、いま思い出した。
ほとほとウンザリすることばかりが世の中を流れていて、それに思考を割くことすらも嫌になる。もう諦めて、思考を放棄してしまおう。ときにそんなふうに思ってしまうこともあるが、それこそ相手の思うツボだ。私たちには子供はいないが、猫がいる。一緒に暮らす猫のために、生き残らなければならない。あのヴェイユですらも、疲労の果てに思考を投げ出したい誘惑にかられたというのだから、この世界に蔓延る「得体のしれない底なしの悪意(と仮に言葉にしてみるが、それそのものではない、おそらく)」は、人間が考え続けること、その行為そのものを嫌い、排除したがっているのに違いない。思考し続けることが、この世界への抵抗になる。
はじめて恵方巻きと言われて販売されている太巻きを食べた。恵方も向かず、かぶりつくこともなく、食べやすい厚さに切って食べた。太巻きであった。思えば太巻きもほとんど食べたことがなかったので、たいそう美味なものなのだと関心しながら食べた。今日は太巻きを食べるのに良い日なのであろう。おかげで2本食べた。
チャランポランでグウタラで無責任、気が向いたら寝て食べて、ときにひとが変わったように何かに没頭して、そうかと思うとまた寝てる、でもその寝顔はこの宇宙の全てを超越してるような、そんな存在がいるだけで、どんな世界であろうとも「いま、ここ」を肯定できる、のではないかという問いを立ててみようと思う。
午前中、少し生業仕事をして、いそいそと家に帰ってきた。外は吹雪。体が芯から冷えて体調が良くないので、湯に浸かってすぐに布団に入る。布団のなかは安全地帯。
感情という、目に見えないが確かに存在するもの一切が、仮にこの宇宙に「情報」として一定期間記録されるのだとすれば、たとえ人は亡くなってもその人がいたことに纏わる感情の動きは、その本人のものも含めてこの宇宙に留まる。だとすれば、それは人は亡くなっても確かに在り続けるのだということを、この私が考えることをこの宇宙が許していることにならないか。亡くなった人を日々考え、他者への共有を可能にする言語という形にすることで、亡くなったあともその人に纏わる情報を生産し続けることができ、すなわちそれは、死しても尚在る、を実現することになるのではないか。
2、3度行ったことがある夢のなかでしか行けない飲み屋街があって、長屋というか横丁というか、数件並んだ飲み屋でカウンター席しかないのだけど、朝までやってる。2回ほど夜明けまでいたことがあって、現実世界の立地ではあの辺りというのはわかるが、当然そんなところに実際はない。が、夢のなかでなら確かにあって、ほんと何度か同じ場所が夢に登場するから、あっちの世界には確かにあるのだ。焼鳥の店と小籠包が美味い中華居酒屋がよく行く店。店主はいつも無口だが、出されるものはどれも美味いので、それをアテにしているとヘベレケになるまで飲んでしまう。すぐ近くの小道には、えらく高い壁の造り酒屋があって、見上げると青空がある。
昨年公開された羅苡珊(ルオ・イシャン)監督の山岳ドキュメンタリー映画『雪解けのあと』と、呉明益『複眼人』は時空を超えたところで共鳴し合っているような気がしている。「死」と向き合っていくなかで、どこか同じところに繋がっていくような、なにか、これはなんだ。
なんできょうからしごとなの? ずっといっしょにだらだらしてたらいいのに
おふとんからでられない でたくないよ
エーコの『薔薇の名前』が届いたその日に蕎麦も整った。鴨鍋でビールを呑ったあとに地元の手打ち蕎麦でエーコ読みながら地酒の熱燗でエーコを呑る。