映画「長安のライチ」を観てきたがこれは素晴らしかった。
官僚主人公の不条理コメディぐらいかと思っていたら、遥かに遠くまで連れていかれて大満足。ちょうど岩波新書のシリーズ中国の歴史を読んでいたのも良かった。原作の馬伯庸にも興味が出たので既刊を片端から読んでみるつもり。
映画「長安のライチ」を観てきたがこれは素晴らしかった。
官僚主人公の不条理コメディぐらいかと思っていたら、遥かに遠くまで連れていかれて大満足。ちょうど岩波新書のシリーズ中国の歴史を読んでいたのも良かった。原作の馬伯庸にも興味が出たので既刊を片端から読んでみるつもり。
Slay the Spire 2発売の影響かSteamの支払いがエラー起こしてる。
空元気でなく、悲しいときは悲しい曲を聴くし、負けてるときは負けてる話を読む。こういう日は富山さんの声を聴いて寝る。明日は明日で仕事をする。
www.youtube.com/watch?v=Zfmc...
流れとしてはマフティーが剥がれてハサウェイになっていく話にするのかも。周囲の人々がいなくなり、機体に乗っていなければマフティー=ハサウェイと言えるのはギギの直感だけになる。追跡リストからも削除されている。13歳へ戻る過程なら肉欲への嫌悪もある。マフティーの罪から逃れた先でチェーンの罪に裁かれるんだろう。もしくはマフティーであることを奪われて木星あたりに向かうことになるとか。
抗う先である肉欲自体の表現も弱い気がする。ハサウェイが中学生ならまだしも恋人がいる25歳でシャワーシーンの幻視とか胸で動揺するのが腑に落ちない。クェスに対するその肉体を含めた慕情が肉欲として見えていて、それに自己嫌悪しているなら納得がいくけど、特にそういった描写は無い。ケネス側の表現もそうで、隊内の若手が囃し立てたり朝チュンを描かなければ肉欲があると示せないのもなんとも。総じて安全で衛生的な肉欲という感じ。
「閃光のハサウェイ キルケーの魔女」を観てきた。
個人的にはあまりうまくいってない印象。なんというか肉欲を遠ざける理由がよくわからない。マフティーが禁欲的な人物として押し出されているなら得心が行く。しかし、肉欲寄りの人物に見えるオエンベリのファビオが臆面なくマフティーを騙れて、ハサウェイに少し落胆することからそういう人物像ではないと思える。キャスバルと違い、マフティーという役割の像がはっきりしないから軸がわからない。
みずほ銀行の唐鎌さんは、本人のnoteとPIVOTチャンネルの動画で得心が行くロジカルな説明をしている。
note.com/dkarakama/n/...
高市首相の特徴として兵站の軽視がある印象。備蓄米補充前の仮想敵国への挑発や、政治資源である公明党に対する扱い、今回の外貨準備流用の話も同様かな。説明やネゴシエーションが期待される場からの逃避も信用の浪費という意味では似ている。
みずほ銀行が高市早苗を批判。
解散から選挙期間中に経済界が総理にキレるというのは、なかなか無くて珍しいことなのでは。
経済界の怒りは、ごもっともだけど、キレるのが3カ月〜4カ月間、遅い…
高市演説を受けて~危うい現状認識~
www.mizuhobank.co.jp/forex/pdf/ma...
SNSや動画サイトを扱ったメディア効果論を探す。
そうであるが故に、水谷瑛嗣郎「「刺戟」の時代における「静穏」の確保」(同誌31頁以下)が、もはやタイトルにおいて端的に示すように、「感情(特に「怒り」)をより刺戟する党派的に極端な内容のコンテンツも、アテンションを稼ぐには有利で」(同32頁)、そのことによって、「自分と似た」者への「個人的な親近感」が増幅し、(プラトン的な)衆愚政治に陥るのは、(この特集の各執筆者が何とか抗おうとはしているものの)もはや事理の当然とすらいえるのだと思います。
最近、劇場版パトレイバーとGHOST IN THE SHELLを見て、豪勢な余白のある映画だと思った。新作においても余白を保持できるのかは興味がある。
お節介かもですが、ここでの「カード」や「ゲーム」はTCGにおけるものを指しているように読めます。おそらくは人生を社会対自分の一対一とはとらえず、様々な人々によって繰り返し行われる多様なゲーム大会と見るようなものでしょうか。
「カード」はそういったやり取りにおいて選択肢を持っておくということかなと。
この「メタゲーム」的な考え方自体はいわゆるハックを呼び込みやすいので一長一短かとは思います。
この記事など一助となるかもしれません。
webzine.asahipress.com/posts/3077
実際のところNISAとかふるさと納税みたいな制度は国民を「賢い」人と足手まといに分かつための離間策だと思っている。
今後、健康保険についても同様のやり方をするつもりだろう。
足元を見直すのは表現の自由における前提だけど、そのための思考のフレームを持てていないからときどき不安になる。もともと聖書、儒教、社会契約、憲法みたいなそれだけではフィクションであるものに慣習で肉付けをしてきた世界がある。そこへ情報通信機器の発達を背景に、フィクションである陰謀論が上書きを仕掛けている。この状況下で自分が立っている足元の正確な認識とそこから表象までの論理を点検できる知性を持つこと。論理は提示してくれる人は多いけど、足元の認識手法は手薄な気がする。抽象化してしまうと足元から離れてしまうからなんだろうか。現代社会において持つべき分別、とるべき態度の具体的なガイドラインが欲しいな。
白人、アジア人、黒人……など人種ってのはいうても同じ生物のグラデーションよね。それなのに、力あるものが雑に恣意的な線引きをするところが問題であり。
それを、緑色の肌だとか、有角有翼だとか、ミュータントだとか、地球外惑星の原住民だとか、「本当に、自然に違うもの」の表象に織り込んだら、やろうとしたのが反差別の物語だろうがそもそものところで乗っかってる世界観は差別者/被差別者を「本当に違うもの」と隔てる了見なわけですよ。
それでええの?と、少なくとも一旦は足もと見直すのを経た後で「いや、この世界観、この表象にはこういう功利がある、象徴・抽象としてこういう意義がある」と訴えても遅くないと思うんよね
ご返答ありがとうございます。
おっしゃる通り一般的にAIに対しては「賢さ」が期待されると思います。「賢い」から「有用である」という認識がAIの使用を促進するという流れですね。
「AIへの認知」という形に分解していただいたおかげで元のお話に2つの要素があるように思えました。
1つは道具としてのAI使用。学生の例が典型で、本人の背後にAIがあるタイプです。
2つめは権威としてのAI使用。こちらは学者に対するAI回答の提示が典型で、AIを矢面に立たせるタイプです。
1はSFや将棋によって促進されると思います。2は何か違う要素が働いているように思えるのですがいかがでしょうか。
見開き両ページという画面をもとに効果を計算しているコマ割りを翻案せずにそのまま画面にするのは怠惰としか思えない。むしろ原作の作家性をスポイルしている。原作付き映像化作品の楽しみは、原作を読むことで立ち現れる感興を自身の作家性をもった製作者がどのように時間の中で表現するかにあると思う。今回のレぜ編のような作品ならジャンプラチャンネルのボイスコミックでやれば十分かな。
「チェンソーマン レゼ篇」を観た。なんというか映画になっていない作品だった。音響が平面でレイアウトがバラバラで、演出意図が一貫していないショートフィルムの寄せ集めのようだった。
帰って原作を確認してその原因がわかった。この作品は原作マンガを一言一句一コマ一コマ再現することにしている。映画を見てから原作を読むと、まるでフィルムコミックのように見えるぐらいだ。レイアウトの原因もそれで、コマをそのまま画面にしているからカメラが存在しない。カメラが無いから音響も無い。
これを原作再現として喜んでいるのはよくわからない。
はじめまして。ぶしつけな返信をお許しいただければ幸いです。
日本の一般社会におけるAIへの信用はSFより将棋AIによって培われた部分が大きいと思うのですがいかがでしょうか。
SFにおけるAIは「否定されるべきもの」として描かれることが多い印象です。典型的な例は2001年宇宙の旅,ターミネーター,マトリックスなどです。
例外として信用されるAIはAIから逸脱していることが多いです。ドラえもん(AIかは議論),ターミネーター2,マーダーボットなど。
対して将棋におけるAIは「勝っていること」により「AIは人間より優れた判断をする」というイメージを社会へもたらしたのではないかと思っています。
これは読むべきだ。納得のいく言葉が連なる。今に至る流れがとても分かりやすく説明されている。
digital.asahi.com/articles/AST...
有料記事がプレゼントされました! 10月2日 10:03まで全文お読みいただけます。
戦争支持の人々は何を願ったか 今に通じる「らしさ」揺らぎへの反発:朝日新聞
digital.asahi.com/articles/AST...
今日の朝刊のオピニオン面インタビューフルサイズ。前半は少しカットされているぐらいですが、後半は紙面では全然載っていないのでぜひお読みください。歴史に限らず人文社会系の学問全体に対する一石ではないかと。
頭の中でコミュニケーションに飢えて遠吠えている自分を、ちゃんと抑えて会話する能力は社会で必須だけど難しい。昔所属していたゲームサークルで相手かまわず延々しゃべり続けてしまうタイプが結構いた。ただ、ゲームのルールとして言語コミュニケーションが阻害されているときはそれに則して行動してもらえた覚えがある。社会においても「遊び」として暗黙ルールがあるというような認識の方が楽な気分で付き合える気はしている。
コミュニケーション能力は生得的なものではなく、経験や訓練によって培われるものという認識。弱音をはくという行為もお互いに練習の必要性があると認識している同士で傾聴トレーニングみたいに「役割」としてやってみる方が齟齬が無くて良さそう。
www.direct-commu.com/chie/relatio...
「コミュニケーションの苦手な人間ほど弱音を吐きたい傾向があるが、弱音を聞いてもらうにはコミュニケーションスキルが必要」というパラドックスがあるよね。。。
コーヒーの値上がりがすごい。スーパーで240gの粉を買うが、今年初め350円→4月550円→9月750円という推移。
外で飲むコーヒー3杯分の値段だから買えはするが、給料が1.5~2倍にでもならない限りどこかであきらめることになるだろう。
馬場康誌「ライドンキング」、ウクライナ侵攻以前に連載開始のプーチンのイメージをモデルとした主人公の漫画で、侵攻後はキャラを遠ざけるために顔に傷を入れたりしていた。その対応がほっかむりする姿勢に見えて半ば鼻白みながらも読み続けていたけど、思いがけず今になって物語内でプーチン批判があり、完全に逃げたわけではかったことにちょっと感動した。あと「吼えろペン」の実在人物をもとにした漫画は厄介ってエピソードを思い出した。
世界って単位ではないけど、コニー・ウィリスは読者に周囲への愛着を持たせるのが抜群にうまかったな。特に「航路」はベスト。コロナ前に仕事終わりのデニーズで深夜まで読み通したのが忘れられない。
アンディ・ウィアーの「火星の人」は面白かったけど「プロジェクト・ヘイル・メアリー」は周囲が書き割りっぽく感じたな。取り残された人間の救出劇であれば、独身男性の内面と協力的な周囲で面白おかしく話を引っ張れるけど、世界を救うって規模の話だと厳しい気がする。上下巻の長編だとなおさらそう。