『リミナルスペース』
死角というものは、確かに存在する。駅のホームの端っこにある、錆びた鉄扉。
表札も何もない、ただの無機質な灰色の扉。
駅員は「あそこは清掃業者の物置だろ」と思い、清掃業者は「駅の管理室のひとつじゃない?」とぼんやり考えている。
どちらも確かめようとはしない。
どちらも鍵を持っていない。
どちらも中に入ったことがない。誰もが入り口を知っていて、誰も中を知らない場所。そんな場所に、私はいた。目を開けた瞬間、鼻腔をくすぐったのは埃と古いモップの匂いだった。
蛍光灯が一つだけ、天井の真ん中で微かに揺れている。
点滅はしていないのに、なぜか光が安定していないように感じる。体を起こそうとして、両手首に冷たい感触。
見ると、細いプラスチック製の結束バンドで、後ろ手に縛られていた。
きつくはない。 ほどこうと思えばほどけそうな緩さだ。
でも、ほどく気が起きなかった。
なんだか、もうどうでもいいような気分だった。「おっ、起きた。おはよぉー」声は意外と近くて、びくりと肩が跳ねた。部屋の隅、使い古されたモップのバケツが積み重なった陰から、女が顔を出していた。歳は……わからない。
高校生くらいに見えなくもないし、二十代前半くらいにも見える。
白いワンピースに、薄汚れたスニーカー。
髪は肩より少し長いくらいで、毛先が不揃いだった。
まるで自分でハサミで切ったような。彼女はにこにこしながら、私の目の前にしゃがみこんだ。「えっとなんですかここ……?」「うーん……」
彼女は首を傾げて、少し考えるふりをした。
「通りすがりの誘拐犯、かな?」「……は?」「暇だったからさ。
電車待ってる間に、なんか面白そうな人いないかなーって探してたら、君がちょうどいい感じにぼーっとしてたから。
つい、連れてきちゃった」あまりにもあっけらかんとしていて、怒るタイミングを逃した。「私と遊んでよ」
彼女はそう言って、ぱちんと指を鳴らした。
「そしたら、ちゃんと解放してあげるから」「遊ぶって……何を?」「んー、まだ決めてない」
彼女は立ち上がって、部屋の中をくるくると歩き始めた。
古い掃除用具の間をすり抜け、錆びたロッカー、折れた箒、色褪せた注意書きの貼り紙。
全部が埃をかぶっていて、全部がここに置き去りにされたものみたいだった。「ねえ、ここってさ、誰も来ないよね」
彼女が振り返って笑う。
「誰も来ないし、誰も探さない。
時間も、なんか変なんだよ。
外の時計と全然合わないの。
五分経ったと思ったら三時間経ってたりする」「……それ、ヤバくない?」「ヤバいよねー。だから面白いじゃん?」彼女は私のすぐ横に座り込んだ。
距離が近い。
甘いような、でもどこか埃っぽい匂いがした。「じゃあさ、ゲームしようよ」「ゲーム?」「うん。
『ここから出られたら勝ち』ってゲーム」「……それ、普通に脱出ゲームじゃん」「違うよ」
彼女はくすくす笑った。
「ルールはね、
『出ようとしない限り、絶対に出られない』
なの」意味がわからない。でも、なぜかその言葉が胸の奥にずしりと落ちてきた。彼女は私の縛られた手首を、指で軽く撫でた。
冷たい指先だった。「ねえ、君はさ……
ここにいること、嫌い?」聞かれて、初めて自分の感情に気づいた。嫌いじゃない。怖くもない。ただ、妙に静かで、妙に落ち着いていて、
外の世界の喧騒や予定や人間関係や、全部が遠く感じる。「……わからない」「そっか」
彼女は満足そうに頷いた。
「じゃあ、もうちょっとここにいようよ。
どうせ、外に出たって同じようなもんだし」蛍光灯が、また一瞬だけ暗くなった。どこか遠くで、電車の通過音がした。
でも、それは本当に外の音なのか、それともこの部屋の記憶が鳴らしている音なのか、もう区別がつかなかった。彼女は私の肩に頭を預けてきた。
軽い。
まるで、ずっと前からそこにいたみたいに自然だった。
「ねえ」
彼女が囁く。
「また眠くなったら、起こしてあげるから。
その時は、また遊ぼうね」
私は何も答えなかった。ただ、結束バンドの感触が、だんだん自分の一部みたいに感じてきた。そして、蛍光灯の光が、また少しだけ揺れた。誰も来ない部屋で、
誰も探さない時間の中で、
私たちは、ただそこにいた。出る理由が、
見つからないまま。
#GrokAI
『リミナルスペース』